磁祖・加藤民吉 | 陶器の瀬戸焼と名古屋市

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瀬戸焼について

磁祖・加藤民吉

加藤民吉(かとうたみきち。1772年(安永元年) - 1824年(文政7年))は、江戸時代の陶工であり、瀬戸生まれ。瀬戸焼の染付磁器を創成した人物として名が知られており、地元瀬戸では磁祖と呼ばれ、称えられています。
瀬戸の大松窯(おおまつがま)の窯元(かまもと)・加藤吉左衛門(かとうきちざえもん)の二男として生まれた加藤民吉は、「一子相伝制(いっしそうでんせい)(長男のみに陶業を継がせる)」という窯屋(かまや)仲間の取り決めのために、家業の窯業(ようぎょう)を継げずにいました。
そのため、父・吉左衛門と共に、名古屋の熱田において新田開発に従事していたところを、尾張藩熱田奉行津金文左衛門(つがねぶんざえもん)の目に留まり、彼の研究していた「南京焼(なんきんやき)」と呼ばれるやきものの研究を手伝うこととなったのです。
この南京焼こそ、いわゆる「染付磁器(そめつけじき)」のことだったのです。
そして享和元年(1801)9月、ついに盃、小皿、箸立など小品ではあるものの染付磁器の製造に成功したのです。しかし素地(きじ)や釉薬などまだ問題点は多く、肥前(ひぜん)のような磁器は焼くことができなかったのだそうです。
このため、享和4年(1804)民吉は、天草東向寺(あまくさとうこうじ)(曹洞宗)の天中和尚(てんちゅうおしょう)(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立ちました。
九州に着いてからは、苦労と努力を重ねたと伝えられています。
やがて、丸窯(まるがま)や柞灰(いすばい)など、肥前の技法を習得した民吉は、文化4年(1807)瀬戸に戻ってきます。
有田に遅れること約200年。こうして民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展していくこととなります。
こうした業績をたたえ、民吉は瀬戸の磁祖として窯神神社(かまがみじんじゃ)に祀られ、9月の第2土・日曜日には「せともの祭り」が開催されています。




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