招き猫 | 陶器の瀬戸焼と名古屋市

TOMIX.com

HOME > いろいろな瀬戸もの > 招き猫

いろいろな瀬戸もの

招き猫

招き猫

ご存知の通り、愛知県瀬戸市はやきものの街として大変有名です。そして、明治以来の歴史を持つ招き猫の生産地、つまり故郷でもあるのです。
かつて瀬戸は、人形や鳥など精密に表現したセト・ノベルティーと呼ばれる海外輸出向けの置物を多く生産していました。
そのセト・ノベルティー生産の原点ともいえるもののひとつに招き猫があります。
明治30年代後半以来約100年間、「古瀬戸タイプ」からファンシーな招き猫まで、時代の要請に合わせ、さまざまな招き猫を作りつづけてきました。
「古瀬戸タイプ」と称される細身で前垂れを着けたかたちの招き猫は、京都の伏見人形が原型ともいわれています。
現在、最もポピュラーで生産高が多い招き猫といえば、小判を抱えた二頭身の「常滑タイプ」です。
昭和20年代後半に現在のモデルが完成し、瀬戸市のお隣の常滑市が主産地となっています。

招き猫の由来

豪徳寺説

ひとつめに東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説があります。
江戸時代に彦根藩第二代藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに豪徳寺の前を通りかかりました。
そのとき、この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄り休憩をしました。
すると雷雨が降りはじめたのです。雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝は、後日荒れていた豪徳寺を建て直すために多額の寄進をし、豪徳寺は盛り返したといいます。
和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔ったそうです。そして後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)が作られるようになりました。
ちなみに、この縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺となったといわれています。幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓も豪徳寺にあります。
また、同じ豪徳寺説でも別の話もあるんです。
直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていたそうです。
直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちました。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くのの寄進をした…というお話です。
これらの猫をモデルとしたもうひとつのキャラクターが、井伊家と縁の深い彦根城の築城400年祭マスコット「ひこにゃん」なんだそうです。
前述のように、招き猫は一般に右手若しくは左手を掲げていますが、豪徳寺の境内で販売されている招き猫は全部右手(右前足)を掲げ、小判を持っていません。
これは井伊家の菩提寺であることと関わりがあり、武士にとって左手は不浄の手のためなんだとか。
そして小判を持っていない理由は、「招き猫は機会を与えてくれるが、結果(=この場合小判)までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方からなんだそう。

自性院説

さらに、東京都新宿区の自性院が発祥の地とする説があります。
ひとつは、江古田・沼袋原の戦いで、劣勢に立たされ道に迷った太田道灌の前に猫が現れて手招きをし、自性院に案内します。
これをきっかけに盛り返すことに成功した太田道灌は、この猫の地蔵尊を奉納したことから、猫地蔵を経由して招き猫が成立したというものです。
そしてもうひとつは、江戸時代中期に、豪商が子供を亡くし、その冥福を祈るために猫地蔵を自性院に奉納したことが起源であるとするものです。

他にも、東京都豊島区の西方寺起源説、民間信仰説などいくつもの説があり、いずれが正しいかは判然としません。
招き猫のモデルは、毛繕いの動作(いわゆる「猫が顔を洗う」というやつ)ではないかという説もあるそうです。




HOME | 瀬戸焼について | セト・ノベルティーとは? | 東海地方の窯業 | 名古屋と陶器
いろいろな瀬戸もの | 陶器の扱い方 | サイトマップ