セト・ノベルティーの前史 | 陶器の瀬戸焼と名古屋市

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セト・ノベルティーとは?

セト・ノベルティーの前史

セト・ノベルティーの前史

瀬戸焼1300年という永い歴史の中、セト・ノベルティの歴史は、現代の20世紀初頭からという短い期間で、成立・発展・衰退していきます。
瀬戸における置物、彫像の生産の歴史は、鎌倉時代の窯跡から狛犬が出土しているようにその歴史は古いです。
特に江戸時代に入ると、手捻りや木型・土型で、仏像や動物などの置物づくりが行われるようになり、そしてこれらの置物づくりは、江戸時代後期から明治時代初頭にかけて、渡辺幸平によって陶彫という新しい分野として確立されていきました。
また、ノベルティ製作技術の基本となる石膏型についても、明治6年(1873)にオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会を契機として、日本にその技術が伝えられ、また実用化されています。
特に陶彫の分野は、六代川本半助や寺内半月、加藤初太郎等にその技術は引き継がれていき、後に加藤初太郎が日本陶器で原型(ノベルティを生産する上で、元となる形を粘土で制作し、それから石膏型をつくるもの)の制作に携わっていることからわかるように、陶彫の技術はノベルティ原型制作へとつながっていきました。
このように、石膏型製法の研究や、陶彫技術の確立が明治時代前期から中期にかけて行われたことにより、セト・ノベルティが成立するための土壌が確立されていったのです。
瀬戸においては、先にも述べたとおり食器・花瓶などが主力の製品でありましたが、明治時代中期頃から新たに玩具の生産が始まり、招き猫・稲荷狐・福助・水入れ人形などが生産されていきました。
その中でも、明治36年(1903)には、加藤佐太郎によって陶製の浮き金魚が生産され始め、最高時には月一万個の売り上げがあったのだそうです。
また、ドイツ製の見本をもとに、裸像やインドの神様を形どった、瀬戸では「インド人形」と呼ばれるものが生産され始め、輸出されるだけでなく、射的場の的として国内向けにも販売されていきました。
これらの玩具はポン割と呼ばれる単純な型(2つ割)で製作されていたため、「人形とはいうものの、現在の高級人形から見れば、陶器のかたまりみたいなもので、わずかに凹凸がつき、その上を金仕上げにして顔や手足を判別する代物」だったといいます。これらの玩具類が、セト・ノベルティの最初といえるでしょう。
戦後の瀬戸窯業は、戦災をほとんど受けていなかったことや、戦後の物資不足による生活用品の需要が高かったことなどにより、復興への道を確実に、そして急速に歩んでいきました。
戦時中に途絶えていた輸出も、制限付きながら再開されていくこととなりましたが、輸出する商品には、占領下の日本を意味する「Occupied Japan」の銘を必ず入れなくてはなりませんでした。
当初輸出していたものは、戦前に生産し在庫として抱かえていたものや、戦前の型を使用して生産したものでしたが、輸出が本格的に再開されると、すぐに高品質のものが生産されていくようになります。
そして、18インチ(約45cm)の高さを持つ大形人形の製造も可能になるなど、セト・ノベルティは最盛期を迎えていくこととなります。
また各メーカーごとに、自社の特色を生かしたノベルティが生産されるようになり、多種多様なセト・ノベルティが生産され、そして世界中に販売されていくことになります。
ここに、ヨーロッパのノベルティの模倣に始まった瀬戸のノベルティが、ようやくその模倣から脱し、「セト・ノベルティ」として自立し始めたのです。
現在では、円高や東アジアの生産地の台頭などによって、セト・ノベルティの生産は低迷を続けていますが、その技術は、心ある方々によって守られています。




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